補論 漢文風文法は片言の日本語である

「は」による日本語文との対照

1. 本補論の立場

本補論では、漢文風文法を日本語の一形式としてそのまま受け取るのではなく、あくまで片言の日本語として捉える立場を述べます。 漢文風文法は、簡潔であり、書記のうえで有用であったため、古代から明治期まで正式文書などで広く用いられてきました。 しかし、それは日本語そのものの自然な文法であったというより、簡潔さを優先した省略的・圧縮的な書き方であり、真っ当な日本語とは別の層にあるものだ、というのがここでの見方です。

2. 片言性が見える例

よく知られた形として、次の文があります。

我思う、ゆえに我あり

この文は、漢文風文法に親しんだ目には収まりよく見えます。 しかし、「我」をより日常的な「私」に置き換えると、その性質がむしろ明瞭になります。

私思う、ゆえに私あり

この形になると、日本語としての片言性がはっきり現れます。 何かが欠けているという感覚が生じるのは、日本語の文として必要なつながりが表面に示されていないからです。

3. 「は」を入れたときの安定

これに対して、「は」を用いると文は日本語として安定します。

我は思う、ゆえに我はある

ここでは、「我」がどのような語であるかよりも、「は」によって主語と述語の関係が明示されていることが重要です。 そのため、この文は片言ではなく、真っ当な日本語として読むことができます。

同じことは、「私」を用いた場合にも当てはまります。

私は思う、ゆえに私はある

こちらも日本語の文として自然に読めます。 つまり、文の自然さを左右している中心は、「我」か「私」かではなく、「は」によって文の骨格が示されているかどうかです。

4. なぜ漢文風文法が用いられたか

漢文風文法は、簡潔であり、短く引き締まった形をとりやすいため、古代から明治期まで正式文書などで継続的に用いられてきました。 とくに、公的記述や記録や論述の場では、その簡潔さが便利であったと考えられます。

しかし、簡潔であることと、日本語として十分に自然であることとは同じではありません。 省略を重ね、つながりを圧縮した表現は、書記上は便利でも、話し言葉としてそのまま立つとは限りません。 その意味で、漢文風文法は広く使われた形式であっても、あくまで片言の日本語にとどまる、という整理が可能です。

5. 真っ当な日本語の持続

もし漢文風文法がそのまま日本語の本体であったなら、日本語本来の文の流れは早い段階で置き換えられていてもよかったはずです。 しかし実際には、古事記、万葉集以来、「は」をはじめとする日本語の文の立て方は継続して用いられてきました。

これは、漢文風文法が広く使用されながらも、それが日本語の自然な文成立の形式そのものではなかったことを示す、と本補論では考えます。 正式文書の場で漢文風文法が機能したとしても、日本語として真っ当に文を立てる流れは別に保たれ続けていた、ということです。

6. まとめ

漢文風文法は、簡潔さゆえに長く用いられてきた書記上の形式です。 しかし、それは日本語の自然な文法そのものというより、あくまで片言の日本語として理解すべきものだ、というのが本補論の結論です。

「私思う、ゆえに私あり」に片言性が現れ、「我は思う、ゆえに我はある」に日本語としての安定が現れるのは、その違いを端的に示しています。 ここでも文を真っ当に立てているのは「は」であり、日本語の自然な骨格はそこにあると考えられます。

本補論は、「は」によって日本語の文成立が明示されるという立場から、漢文風文法を対照的に位置づけた補足文書です。