「は」こそ日本語だ
日本語らしさをどこに見るかを考えるとき、語彙の出自よりも、文をどのように成立させるかに注目する見方があります。 その立場から見ると、「は」は日本語の文の骨格を示す、きわめて重要なマーカーだと考えられます。
まず見えてくること
次の文を見てみます。
これらは、英語の語彙を含んでいても、日本語として解釈できます。 理由は、「は」によって文の形が与えられているからです。
これに対して、次のような形は解釈が難しくなります。
これらは、日本語として読み取りにくいだけでなく、英語として見ても解釈は容易ではありません。 ここで目立っているのは、語の種類そのものではなく、文の骨組みをどのような手段で示しているかの違いです。
前者では、「she」や「smart」や「run」という英語の語彙が使われていても、「は」が入ることで全体が一つの日本語の文としてまとまります。 後者では、日本語の語やローマ字表記が含まれていても、文の組み立て方がはっきりしないため、全体の解釈が不安定になります。
そこから言えること
言語とは、「主語:述語」構成をとるものです。 そして日本語では、「は」がこの構成を端的に示すマーカーだと見ることができます。
たとえば「sheはsmart」であれば、「she」が主語、「smart」が述語です。 「sheはrunする」であれば、「she」が主語、「runする」が述語です。 ここでは、どの語が外来であるかは決定的ではありません。 「は」が置かれることで、主語と述語の関係が明示され、日本語の文として読み取れることが重要です。
逆に、「彼女 is 賢い.」や「彼女 走るs」のような形では、その関係を示す中心が曖昧になります。 そのため、日本語の語が含まれていても日本語として安定せず、英語の形式として見ても十分には整いません。
ここから言えるのは、日本語であることを支えている中心は、語彙の純粋さではなく、主語と述語の関係をどう示すかにあるということです。 その役割をもっとも端的に担うのが「は」なら、「は」こそ日本語だ、という言い方は、日本語の文成立の核心を指した表現だと考えられます。
つまり、「は」は単なる一語ではなく、日本語の文を日本語の文として立ち上げる印です。 どのような語彙を取り込んでも、「は」によって「主語:述語」構成が示されるなら、その文は日本語として解釈できる。 この点において、「は」こそ日本語だ、という主張には明確な意味があります。