「いわく」か「のたまわく」か
ふと「論語」を読み返してみたいと本屋で探してみました。
で、とても驚いたのが、慣れ親しんだ
でなく
になっていたこと。
パラパラとめくって幾つか見て見たのですが、
と購入しませんでした。
文体の記憶に関して
◆翻訳文;内容の記憶と文体の記憶にも書いたのですが、
この「いわく」「のたまわく」の差となると、もはやちょっと違和感があるというレベルではなく、
乗り越えることはできません。
#2019/11/15:
「曰く」表記の「一億三千万人のための『論語』教室 高橋源一郎著」という本を見つけたので購入しました。
残念ながら微妙に記憶と異なっており、例えば記憶している「学びて思わざれば...」は「学んで思わざれば...」となっています。
う~ん。。。
内容は。。。う~ん、読みやすくしようとしているのは分かるけどちょっと意見の偏りが。。。。
#2020/08/10:
「いわく」とちゃんとフリガナのある
完訳
論語
井波律子ー訳 岩波書店
というハードカバーの本を購入しました。
高橋版と異なり「まとも」です。
ただ「学びて」ではなく「学んで」。。。記憶違いなのかな~。昔は「学びて」だったとか。
記憶の中では小学校の木造の校舎の図書室で読んでいて、4年生の頃には鉄筋の"新校舎"に図書室は移ったのでそれ以前のとても昔。
「いわく」に戻してほしい
もちろん記憶しているものと違うというのが一番ですが、
加えて、
- 「いわく」だと孔子が話したことを各々が積極的に考え理解する
というイメージなのですが
- 「のたまわく」だと孔子が話したことを、考えることなく、ありがたく受け取れ
と言っている感じがするのも「嫌な」点です。
孔子に敬意を払うことは良いことですが、その言葉の解釈に余計なバイアスがかかるようなことはすべきではないと考えています。
権威を以って思想を押しつけるというのは孔子の望みではないはずです。
人に優劣上下ありというのは孔子の思想ではなく、その後の人間が間違って解釈したものです。
論語/儒教の不幸
論語に書かれた思想はその後「儒教」という名で引き継がれていきます。
このような時にありがちなのが、教条主義と後付け原理主義による狭歪化で、論語の解釈も歪められていきます。
ただでさえ歪みの生じる語り伝えですが、伝わる相手によってはトンデモナイことにもなります。
本来の儒教は平等で自律性を持つ人間が円滑に社会生活を営むための知恵のはずなのですが、
残念ながら、くだらない「メンツ」で動く人々と、おそらく人間の持つ感情の中で最も卑しく愚劣な感情「妬み」で動く人々によって、人間に優劣上下ありという間違った方向に持っていかれました。
上は威張りちらし下は妬む。それは儒教じゃない。
電車で高齢者に席を譲るのも日本だと「つらい場合はお互い様」といった気持ちであるのに対し、
「メンツ」「妬み」の人々は、高齢者は上位の者であるため下位の者が譲らなければならないと考えるようです。
日本人が席を譲るのは優しさ、思いやりですが、歪んだ儒教下では「上下関係」。
彼らをプライドが高いと言う人がいますが、完璧な間違いです。
彼らには人は平等という概念が無く、かつ個人個人の価値観や人格が確立されておらず、常に上下関係の中で生きているので、その場その場で下なることが耐えられないのです。
そのため「メンツ人間」は無意味に自分を持ち上げようとします。
そして「妬み人間」は嘘をついてでも他人を貶め(おとしめ)ようとします。
日常的に嘘をついていますので、嘘をつくことに関して罪悪感など持たなくなります。
嘘は重ねるうちに妄想となります。
また「妬み人間は」誰かに助けられると、感謝するのではなく相手の優位を妬みます。
彼らの妬みは恨みに変わります。
本来恨みは相手から害を与えられて感じるものですが、「妬み人間」は何の害も受けず、逆に恩恵を受けたにも関わらず、相手が上位であることを妬み、それが根拠のない恨みに変わるのです。
上下関係による妬みとその変質した恨みが彼らの感情の全てです。
彼らの話し方が無意味に上から目線であることが多いのも対等な立場で話すという事を知らないのです。そこに妬み、嘘、勝手な恨み、妄想が絡みますのでまともな対話は成立しません。
妬みの裏返しで他人の不幸を見て自分が上になったように思いとても喜ぶ、例えば他国の自然災害が嬉しくてたまらないというような、人間性に欠ける反応が出るのも彼らの特徴です。
スポーツに於ける勝敗の意味や栄誉といったことも理解できず上下関係としか捉えられないため、優勝杯を足蹴にするといった行動に出ます。彼らは誇るべきものを殆ど何も持ちませんのでスポーツで勝った場合などここぞとばかり優位を示したがるのです。
彼らは人格が未成熟であるため「責任」という概念も有しません。不適切な行動を指摘されるとその場その場で他人のせいにしようとします。
もちろん、それらは儒教の目指すものではありません。儒教は秩序を重視しますが平等を否定するものではありません。他人の不幸を喜ぶなど儒教ではあり得ません。
「のたまわく」にはどうもそういう歪んだ思想の匂い、あるいは歪んだ思想に進む第一歩を感じてしまいます。
「妬み人間」によって愚劣な思想に貶められてしまった儒教から論語だけでも救い出したいと思っています。
補足:
妬み(ねたみ)は日本人でも持ちます。
「隣の家に蔵が立つ。こっちは腹が立つ」と言い放った政治家もいました。しかし、それでも隣の家を貶めようとはしないのです。
他を貶めたくなるようなまでの愚劣さの極みを「妬」で表すのは適切ではないかもしれません。やはり「恨:ハン」でしょうかね。("うらみ"ではありません。なんだか漢字まで愚劣化されてしまっているように思えます。適切な漢字がないということは、これほどの愚劣で卑しく(いやしく)穢らわしい(けがらわしい)感情があり得ることをさすがの古代中国人も想定できなかったのでしょう)
補足2:
日本にも嘘を言って(捏造記事を書き)他を貶めることにより自分が正義のように見せたがる人間のクズもいます。
とはいえ、それは妬みによるものではありません。
補足3:
日本にも「言霊:言葉にするとそれがやがて真実になる」という考えがあります。しかしそれは話したことがそのままでは真実ではないからこその考えで、悪いことを述べるな、良いことを述べよという戒めとも言えます。
しかし、嘘吐き妬み人の場合、嘘をついた場合、それが自分でも本当の事だと思ってしまうようです。彼らは普通の人間と異なり、妄想の世界に住んでいるのです。
もう一つの彼らの特徴として、人類が共通して持つ「共感性(他人が喜んでいると自分も嬉しくなり、他人が悲しんでいると自分も悲しくなる)」を持たないという点があります。
彼らは他人が喜んでいると妬み、他人が悲しんでいると嬉しくなります。
ローマ法王は「彼らは霊的に生まれ変わる必要がある」と言いました。それは即ち精神・霊(たましい)が人間のそれではないということです。
人間性を全否定する言い方ではありますが、まさに慧眼だと思います。世界はローマ法王のこの言葉を噛みしめて彼らと対峙しないといつまでたっても何度でも騙され続ける事になります。
これ以上穢らわしい事に関して述べるとこちらの心も穢れてくる気がします。
面舵いっぱ~い!
危ない危ない。愚劣暗礁に乗り上げるところだった。
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子、曰く
和を以て貴しとなす
それは違う。日本人としては論語よりこっちだけどね。
なお、「和」「調和」は皆が無批判に同じ行動をとるのではなく、各々の自律性があって成り立つものです。
思いて学ばざれば
僕にとって「論語」で一番はっとした言葉
子、曰く
学びて思わざれば、則ち暗し(罔)
思いて学ばざれば、則ち危うし(殆)
これは子供の頃ちょこっと読んで結構心に突き刺さった言葉でした。
「思いて学ばず」とは僕の事かと。
以来ずっと頭には置いてあります。
とはいえ、、、このブログ、、危うい記事を書き散らかしていることは、認めざるをえません。
突き刺さった言葉に関連する独り言(人に読んでもらおうと思っていない)
突き刺さったショッキングな言葉
詳細は一旦書いたのですがつまらな過ぎるので削除しました。
●つまらん、お前の話はつまらん
何年か前にTVのCMで流れた言葉。
なんか自分のことを言われたような気がして。。。。
●友達にできることは友達にやらせてあげなさい
幼稚園の頃に先生から言われた言葉。
僕の人生を変えた言葉といっても過言ではないかもしれません。「思いて学ばず」とこれが座右の銘かな。
。。。。何でしょうかね。ここにこうやって書くのも、重くて、少し辛いような。
じんわりと刺さった言葉
この時の感じを何と言っていいやら。不条理?
さらに、ついでに。凄いなと感心した言葉。
以上、記事の本筋とは無関係だけど、多分今後書く機会もないだろうから、ここに吐き出しました。