◆翻訳文;内容の記憶と文体の記憶
翻訳の文体を記憶しているか
以前の記事 ◇「種の起源」のすすめ:文庫本だってある! で、文庫本の翻訳に記憶との違いがあることを書きました。
本屋でハードカバー版の「種の起源」を見つけたので、パラパラとめくってみました。
幾つかの文を読んだとき「これだ!子供の時読んだのはこれだ!」と心の中で叫んでしまいました。
内容は文庫本と差があるはずがありません。しかし文体が違うのです。
文庫本で大きな違和感を感じた「ナチュラリスト」という用語(ハードカバー版では「博物学者」)の他に微妙な違和感を感じていました。
その違和感は記憶の奥底にしまわれた「文体」との差だったのです。(おそらく)
小学校の頃1度読んだだけのものを何十年も記憶しているというのは少し信じがたくもあります。 しかし、一語一句覚えているのではなく、文の雰囲気、語り口、文体が染みついていることは考えられます。
文庫本の訳は特に悪いとは感じなかったのですが、今一つ読みづらかったことは否めません。
眠っていた記憶との違いが邪魔をしたのでしょうか?
昔読んだ本の新訳は期待できるのか
何年か前、ファーブル昆虫記の新訳が出ると言うのでとても期待して、購入したことがあります。
残念ながら、とても読みづらい訳で、10ページ位読んだところで止まってしまっています。
例えば古い訳では「私たちは4人か5人だった」となっているところ
新しい訳では「私たちの人数は4人か5人だった」となっています。
このまどろっこしさが読みづらさの主因だと思っていましたが、ひょっとしたら
眠っていた文体の記憶との差が新しい訳を受け付けない原因なのかもしれませんね。
利き訳(同内容でスタイルの差の見分け)は出来るか
子供の頃読んだ本の翻訳者の異なる版を幾つか読んで、どれが子供の頃読んだものだって当てることはできるでしょうか?
何も考えずに読むと「違和感」の有無で分かるかも知れませんが、「当てろ」と言われると難しいかもしれません。
文体の記憶は一体どのような形で行われるのでしょうか?例えば内容なら少し曖昧でも話すことはできます。
でも「種の起源風」だとか「ファーブル昆虫記風」の文が書けるような気はしません。
しかし、太宰風だとか漱石風などだと書ける人はいるでしょう。
翻訳の場合でも、翻訳家の一貫した「スタイル」を感じ、内容とは別途記憶すると考えられます。
文体、スタイルを記憶でき、それを別内容に適用できる能力が文章力の基礎の一つだとすると、
文章力のある人であれば、読んで翻訳家を当てることもでき、そのスタイルの文章を書くことができるのかもしれません。
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