◇「空が飛べたら」は正しい。間違っているのは主語論
◇格助詞「が」と「を」;「水が飲みたい」と「水を飲みたい」の差の補足記事です。
「空が飛べたら」は正しい日本語です
「空が飛べたら」は
・話題の主体「空」に関して
・「飛べる」成り立っていたら
という論理構造を持ちます。
この文(句)は「空」関して述べているのであり、文(句)の主体は「空」です。
「飛べる」というのは性質であり、空が動作主体となる訳ではありません。
「飛べる」とはどういう意味かというと、
・ | 真空あるいは気体に満たされた空間Aがあり |
物体Bが | |
周辺に触れることなく他の有形物体の支えなしに移動可能 | |
ということで、「空間Aに関して正しい」「物体Bに関して正しい」
あるいは「空間A,物体Bに関して正しい」という論理が成り立つのです。
「空が飛べる」というのはBは特定しないままAに関して述べているのです。
(もちろん物体Bは文脈上想定され僕とか君とかです)
「主語」という言葉があります。文中で「動作主体」や「同値主体」を表すものです。
「空が飛べたら」や「水が飲みたい」の「空」や「水」は文の「主体」ではあっても、
この限定的意味合いでの「主語」ではありません。
「主語-述語」という誤った文法教育のせいか「水が飲みたい」や 「空が飛べたら」という"正しい日本語"を間違ったものととらえる意見が ありますが、間違っているのは「主語」という構文解析法であり、 「水が飲みたい」や「空が飛べたら」は文法的にも意味内容的にも 正しい日本語なのです。
「空を飛べたら」も正しい日本語だが
「空を飛べたら」というのも正しい日本語ですが、「空」は あくまで動作対象に過ぎず、「空」に関して述べる文(句)ではなくなります。
一方「空が飛ぶ」は普通意味的にありえない
それらに対し「空が飛ぶ」はどうでしょう?
「飛ぶ」というのは動作であり、この文の主体「空」に対して 成り立つか、即ち動作主体としての「空」が「飛ぶ」ということが ありうるかというと、それは普通あり得ず、「空が飛ぶ」というのは 文法的にではなく意味内容的におかしな文となるのです。 この場合でも、空という名の人物が飛ぶのであれば 意味内容的にもあり得ます。「空が翔ぶ」というキャッチ―なタイトルの テレビドラマなんて作れそうな気がしますね。
補足:「空は飛ぶ」はどうか
「空は飛ぶ」も「空」に関して「飛ぶ」が成り立つという論理を表します。
ただし、「が」での論理では「空」が「飛ぶ」という「動作の主」とみなされるの対し「は」の場合は必ずしも動作主とみなされる訳ではありません。
鳥は「空は飛ぶ」が「宇宙は飛ばない」といった論理展開が可能となります。
「空」に対して「飛ぶ」が成り立っているという論理は「が」と同じですが、動作主体としてという限定性はありません。
「ソバが食べない」が許されず、「ソバは食べる、ウドンは食べない」が許されるというのが、論理関係の限定性の現れとなります。
動作以外、例えば「ソバが好き」などは問題はありません。
There is a book.の話題主体はthere
日本語の文法解釈において「主語」を持ち込むのは誤ったやり方ですが、 英語の場合も適切な手法ではありません。
例えば
「There is a book.」
という文はThereについて述べているのであって、文の主体は
thereなのです。
ここに「主語」という適切でない考えを持ち込んだため、この 最も普通の文が「倒置文」などという扱いを受けてしまいました。
この文は「This is a book.」の話題主体が「this」であるのと同じく 「There」が話題主体です。同じ文法論理として解釈すべきなのです。
動詞の形態は、book/booksなどに影響を受けますが、だからといって 主体が変わる訳ではありません。
文法に於いて「主語」はやめよう。
「主語」を「話題主体」ととらえればいいという意見もあるかも
しれませんが、かなり難しいと思います。
どうしても動作主体、同値主体、存在主体ととらえられてしまいます。
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小学校の頃、国語の授業で「"が"がつくのが"主語"だ」と先生が言うので
「"水が飲みたい"の主語は水ですか?」と訊いたところ、「理屈を言うなー!!!!」
と、それはもう、とんでもなく怒られました。
このことは
◇格助詞「が」と「を」;「水が飲みたい」と「水を飲みたい」の差
では書くことをちょとためらってしまいました。
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